2005年04月21日

隣人13号

rinjin13.jpg

タイトル:隣人13号
製作  :2005
監督  :井上靖雄
出演  :小栗旬、中村獅童、新井浩文、吉村由美

小学校のときに何があった、何がなかったなんていうのは憶えてられないというのが、本当だとは思うのだが、憶えてることも断片的であれどあるわけで、それを懐かしくて良い思い出だと思うか、悪い思い出と思うかは、いま自分がどういう状況であるか、ということがもっとも大きい割合を占めている。
しかし、絶対的な経験というのはないにせよ、それに近い経験(記憶)があることは、否定しきれないので、十三がいかにしていじめの記憶を絶対化していったかということが、13号を生み出し行為へと至らす、重要なカギになるだろう。


しかし精神的なことは、他人にとっちゃ結局わからんことなわけで
肉体的なもの(この物語では顔のキズ)が、13号そのものであるといっていいだろう。
外見が先か心が先かという問題というのは、世の中どんな場面でも議論されているので、
やはりこの物語においても、外見的キズがあることによって
十三のいじめの記憶がより強固なものになったに違いないのだが、
小学校の頃の回想シーンの真偽がわからないので(これは私の不注意の可能性もあるが)
キズそのものが先で13号が実体化することによってそのキズが消えたのか、
心の傷が記憶の中の外見的キズになり、結果13号を生み出したのかは分からない。

結局肝心なことは身体を動かすこととばかりに十三と13号は精神の部屋(?)で
踊りだすので「やっぱりそうなのね」とわたしは思うのだが、
本当に大切なのは、精神と身体のチューニングであると、13号はひっそり教えてくれる。
それは十三が「許す」ことによって、身体側である13号と、
精神側である十三の分離が共存関係に取って代わるということで示されている。
そう考えてみれば、十三は初めから復讐の対象となる人間を定めていたのだが、それに対する復讐はたいして重要ではなく、そもそもが十三の復讐心は
十三自身の中において完結しているように思える。
それはなぜか、「許す」ことで忘却することができたのだから。
(まあ13号は何人も殺してるんだけどね)
しかし自己の完結もいよいよ社会、ひいては世界との関わりを
持たなくてはいけなくなるということで(普通に考えたら逮捕されるわな)
冷静にこの物語を思うと、なんとも不器用な青年の成長物語なのです。

(文化遺産)

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posted by つるっと温泉卵 at 13:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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